和歌山の柑橘とみかん そのえにしといわれ


紀伊国屋文左衛門船出の地

紀ノ国屋文左衛門船出の地記念碑
  (和歌山県海草郡下津町)


 柑橘は、カンキツ(Citrus)属植物の総称である。

 柑とは、温州みかんのような皮の むきやすい大きなみかんをさし、橘は小みかんの類をさす。柑橘類と云えばカンキツ属のほか、 カラタチ属、キンカン属を含め、馴染みの深い温州みかんをはじめ、ポンカン、ユズ、オレンジ、ブ ンタン、グレープフルーツ、レモンなどが有名である。一般消費者は、みかんを柑橘類の愛称に使うことも少なくない。

 紀伊国屋文左衛門は、紀州の港から嵐をついてみかん船を江戸送りし、富を築いた物語りは有名である。当時のみかんは紀州みかん(小みかん)であった。紀州みかんは、和歌山でもいまは殆ど栽培がないので一般には知る人も少ないが、小粒ながら香りののある美味しいみかんである。

 和歌山での小みかん栽培は、天正二年(1,574)有田市糸我の伊藤孫右衛門が、肥後の国八代から苗木を持ち帰り植え付けたのが始まり(紀州蜜柑伝来記)である。当時、小みかんは、肥後では八代みかん河内みかん、薩摩では桜島みかんと呼ばれていたが、紀州で小みかんが一大産業として発達したことから、紀州みかんが品種名となり、今でも種名はCitrus kinokuni 、英名もKinokuni で通用している。

 それでは、今の温州みかんは果たして、いつ、誰が、どこから導入したのであろ うか。

 寛永元年(1848)発行の岡村尚謙の桂園橘譜に、「温州橘、伝えて往昔、豊太閣朝鮮陣の時、持ち帰りし種の由云へり云々」とあり、神田玄泉の著「本草或間」に、そ の名を「唐みかん」、「肥後みかん」、「大仲島」と記し、「その種、唐土より来たり、初めて肥後の大仲島に植える故にこの名あり」とある。

 大仲島は現在の鹿児島県長島である。中国には温州みかんに類似した品種はないから、唐から持ち帰ったある種のみかんの種から偶然に生まれたものと推定するほかない。

 昭和11年、著者の大先輩で,かつて和歌山県技師として活躍した故岡田康雄氏が長島で、推定樹齢300年の最古木を発見している。カンキツ品種の権威、 故田中長三郎博士はこうした史実をもとに、温州みかんの原産地は鹿児島県の長島であると断定した。

 昔、我が国で広く読まれた中国の橘緑で、温州府で生産されるみかんをほめ称えていたことから、いつの間にか温州の呼び名が美味なみかんの愛称として使われ、「温州みかん」となったのだろうという。

 ちなみに、温州みかんの英名はSatsuma Mandarin つまり”薩摩みかん”というわけで、当をえた英名が付けられている。

 さて、みかん産地、和歌山への温州みかんの伝来はいつ頃であろうか。寛政年間 (1789〜1801)に駿河国藤枝の田中城で、紀州から温州みかんの苗を取り寄せたとの記録があり、和歌山には古い歴史があることは確かである。

 当時、温州みかんは種なしであることから李夫人(りふじん)、石女(うまずめ)と呼ばれ、忌み嫌われたともいう。

 紀の国温州紀州柑橘緑(1882)によると、「今を距る70年前、温州蜜柑の種を植え漸次実を結ぶに至り・・(中略)。今後産出が増えること間違いなし」とあることから、1800年代初期にはかなり栽培が始まっていたことが裏付けられている。

 しかし、まとまった栽培が始まったのは明治初期以降で、明治35年には温州みかんはついに紀州みかんを凌いで1,587fに達し、和歌山は長らく全国一位の産額を誇ってきた。

 最近はカキ、ウメなどの増加で愛媛県に首位の座を譲ってはいるが、有田地方を中心に銘柄みかんとして名声を誇る”味一みかん”作りや、改良品種”紀の国温州”を生みだし、依然、果実王国の座を揺るぎなく守っている。


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